レッツ・ゴー・エレキ節
《エレキの民謡お国めぐり》

 皆さん!どうもお待たせ致しました。 寺内タケシとブルー・ジーンズがまたまた皆様に素晴らしいアルバムを企画しました。題して"レッツ・ゴー・エレキ節"(エレキ民謡お国めぐり)、きっとお気に召していただけると確信を持っております。
 寺内タケシがブルー・ジーンズを結成以来いままでにポピュラー、映画音楽、ハワイアン、ロックン・ロール、歌謡曲と幅広い演奏活動を続けています。寺内タケシは何時もあらゆる音楽へ次々挑戦し、精進しているのです。その成果が着々と結実しているようです。今度日本民謡に取り組むに当たり、寺内タケシはかなり長い間、想を練っていたようです。その出来ばえはこのアルバムを聞いて下されば分かるはずですと自身のほどが良くうかがわれます。民謡は"心のふるさと"と言われますが、聴く人々の心に慰めとはげましを与え、その地方の風俗、習慣、海、山、野良の風情が偲ばれ、楽しいものです。種々な民謡のアルバムが発表されていますが、どれもこれも高い年齢層を対象に作られているようですが、現状のままが続くばかりです。
 このアルバムでは日本民謡の持つ特色をそのまま生かし、しかも現在にマッチした洒落た感覚で、聞いて、踊ってもらおうというねらいであります。
 実力と人気を高く評価されている寺内タケシとブルー・ジーンズのレパートリーの広さについてはさきほどのべましたが、実際には外国のこの種のバンドより遙かに多いのです。
 演奏スタイルについても模倣だけでなく、あらゆるバンドの良さはとり入れるが、そのままコピーするような安易なことはせず、絶えずオリジナリティーを追究し編曲されているのは見上げたものであります。このブルー・ジーンズの魅力については言うまでもなく、寺内タケシのギター・テクニックの素晴らしさにあり、ある有名なモダン派ギターリストと談話中のことである。寺内タケシについて言った言葉が「指をチョンギッテやる」ほど憎らしいと寺内のテクニックの見事さを評して言った言葉を私はおぼえています。寺内タケシはジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのギターリストであった頃からその実力は大変なものであり、時たま変わったことを舞台でやってくれたのが印象にのこっています。ウエスターンの中でもマウンテン・ミュージックを演奏していた特異なグループでしたが、ある時彼はギターだけでなく、むずかしいバンジョーを弾き大喝采を受け、また早弾きナンバーを三味線で奏でたことが強く印象にのこっています。また小唄の師匠をしている母親から受けた生来の器用さとアメリカ民謡、ウエスターンを愛し続けた開拓精神はこうした彼の歩んで来たキャリアが日本民謡のアルバムにはっきりと結びついているのです。
 このアルバムでは画期的な録音技術で収録されているのであります。従来のマイクを立てて収録したものとは大分音質がことなることに気がつくことでしょう。ブルー・ジーンズの使用している楽器はドラムをのぞいてはすべて電気楽器です。ギターだけでなくアンプ(増幅機)を通しスピーカーから音を出していたのですが、今回の録音ではドラムだけマイクを立てましたが、あとの電気楽器はすべてスタジオの装置に直結し、余分な無駄な音は全部取り除かれ、今までにない現実音ですばらしい録音であることはまちがいありません。演奏面ばかりでなく、録音技術面でもこのアルバムは画期的なものを見せ、いわゆる録音音楽としての楽しさも味わうことができます。ではごゆっくりお楽しみ下さい。

〈第一面〉
1. 津軽じょんがら節
 "じょんがら"とは上河原と書く、浅瀬石村から高賀野に向って行く付近を上河原と言う、だから"じょんがら"とは呼ばぬそうです。浅瀬石の城主千徳の墓所があり、城主を慕って唄いだしたという説もある。津軽地方の民謡の特徴はあのひねくれた小節廻し、それにアクセントを強調した、いわゆるじょうから三味線と呼ばれる、あらけずりな奏法、唄、奏法ともにあくが強いものとして知られている。
2. さのさ
 明治時代の流行歌としてかなり知られている。
(旧)花尽し、山茶花 桜に 水仙花 寒に咲くのは梅の花 牡丹に
  芍薬ネ、百合の花、おもとの事 なら南天、菊の花、サノサ
(新)手を握り グットバイよと二足三足 立戻り、別れかねては
  互に見合すネー 顔と顔 何も云わずに眼に涙 サノサ

民謡では同じ節にその都度、アドリブ的な歌詩をつけるものでありますが、これもその一例です。
3. ソーラン節
 北海道のニシン漁の時に唄われる、数ある唄の中の"沖揚音頭"です。明治時代から唄われていると言われ、ニシン漁のときに沖合で枠網に、あつまったニシンを長い柄のついたタモと言われる棒で、汲船へ汲み揚げるときに使われるのがソーラン節で、うたい出しのソーラン、ソーランというお囃子言葉が題名になった唄です。津軽からやって来た「ヤン衆」が北海道に持ち込んだようである。
4. 黒田節
 元唄は「筑前今様」と呼ばれたもので、黒田藩士の武士達が愛唱したようで、その旋律は雅楽の平調「越天楽」から出ていますが、現在一般に唄われているのは、大正末期から黒田節という名前に変わり、歌詞は酒を讃美しているところから、祝宴で必ず唄われる、昔は手拍子だけであったのが流行してからは伴奏がつき、振付られ、踊りとしても盛んに踊られるようになったのは昭和初期とされている。
5. 相馬盆唄
 相馬地方は民謡が盛んで「相馬流山」「二遍返し」「相馬節」「相馬甚句」・・・などすべて七七七五調の文句が骨格となって歌詩はどれも大部分、囃子言葉が違う程度である。この地方の唄の特徴は明治初年まで五百年もの間、同じ相馬藩主に統治されていたことが民心を安定させ、唄にも表れている。東北地方でも津軽と並んで民謡の宝庫とされ、津軽の民謡に比べて暗さはなく、はるかに明るいのである。
6. 斉太郎節
 別題、「大漁唄込み」として知られるようになったのは、安永六年の石巻の銭座という鋳銭場で伊達藩の通用銭を鋳造していた頃、鋳造人夫の一団が乱暴を働き、罪として流刑(島流し)になった。その受刑者の中に美声で名の知れた斉太郎がいた。鋳造の時うたった、「鋳吹きの唄」を唄い漁をしながら唄った。それが変じて「斉太郎節」と呼ばれ、昭和28年の民謡コンクールでこの唄を「大漁・・・」としたことで、副題の名で知られている。
〈第二面〉
1. おこさ節
 お前来るかと一升買って待ってたネ(ヨ)
 アラ オコサノサアー あまり おそいので
 コラヤノ ヤッコラ(リャ) 飲んでしまったネ(ヨ)
 オコサデ オコサデ ホントダネ(ヨ)

歌詩は右記のものが一番知られているが、やはりその時々の話題を節に合わせて歌い上げたり、アンコに都々逸が入ったりして楽しいものになります。たとえば
(都々逸)兎の目目はなぜなぜ赤い、昨夜寝不足 逢い不足 てな調子でネ。
2. よさこい節
 この唄の発祥は、農仕事の唄から座敷唄への変化か、或は最初から座敷唄として唄われたものかは不明で、近松ものに「夜さ来い」という文句があるとこから相当古い唄ではないかという説もある。安政年間の流行歌だとか、幕末の高知にあったゴシップから生まれたとも言われた即ち、坊さんと町娘の情事がテーマになって、古くからある俗謡にのせて唄われるようになったのではないだろうか。
3. 会津磐梯山
 会津では"盆唄"と呼ばれている。この踊りをカンショ節と言う。昔は古くからある盆踊が行われていたが、明治初年に越後の旅人が唄や踊りを伝えて、それが現在まで唄われ、踊られている。また一説にはこの地方で出来たものでなく、東の海岸地方で出来た、海師達がはるか磐梯山を眺め、その山頂の雪工合を見て天候を察し、いつも豊漁だったと喜んで唄い出したと言われている。
4. 木曾節
 長野県、木曾福島地方を中心とする盆踊唄で、御岳山節が木曾にとどまり「木曾の仲乗りさん」または単に「仲乗りさん」と呼ばれ、伊那に移って「伊那節」となった。徳川幕府時代に大名が幕府に上納する千両箱を馬の背中に右左一個づつを背負わせ、あいだにまたがって乗る人をさして「中乗りさん」と呼んだのである。現在一般に唄われているものは明治40年に集大成されたものと言われている。
5. 八木節
 ああーさても一座の皆様がたよ、ちょいと出ました三角野郎が、四角四面のやぐらの上で、音頭とるとは、はばかりながら・・・と云う唄いだしにはじまり、その場、その場の雰囲気で替え唄を作りながら唄ってゆく、無礼講きわまりないもので受けている。その時々の話題の人物をこの節で唄って、ああーつづく文句はまだまあるけれど、あまり長いはお耳のさわり、まずはこの場で・・・唄い止める。
6. 江戸子守唄
 ねんねん ころりよ おころりよ 坊やは よい子だ ねなねしな
 坊やのおもりは どこへ行った あの山こえて 里へ行った
 里のお土産に なにもろた でんでん太鼓に しょうの笛
 おきあがりこぼしに 犬はりこ ねんねしな・・・ おころりよ・・・
イントロで子供の泣き声を入れたりしてちょっと変わったことをしたりしているのも愛きょうがあって大変ユーモラスな子守唄に仕上げている。

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